ルネの思想を探る

原神

ver4.2までの魔神任務、世界任務、伝説任務に関するネタバレがあるので注意して下さい。

この記事の目的はルネの考える「意志」とは何だったのかについて検討することです。

テイワットにおける「霊」と「魂」と「神」に関する記事です。

ルネとマリアンの考え方

これについてはマリアンの方がわかりやすいのでマリアンから先に検討したいと思います。

マリアンの考え

マリアンの考えについては「水仙十字大冒険」に書かれています。ちょっと長いですが引用します。

Q1:「自我」の性質

この直前にパイモンがタンポポを知らない「マリアン」にどんな花であるのかを説明します。それを受けての会話です。

「マリアン」:ううん、それは花ではなくの話なの。昔、ある場所に静かな水たまりがあってね…それがある日かき回されて、さざ波が生じると、そこから水滴が生まれたの。それら水滴には生命が宿っていて、水から離れると別々の姿になったわ。けど、水で構成された同じ生命であるにもかかわらず、それらは形の違いによって壁を作った。一滴一滴の生命は弱くてもろいもので…けど、それぞれがそれぞれの美しさを保っていたわ。(中略)。元々は一つのところにいた花が、最後は散って花を咲かし、それぞれが自我を持つようになる。でもそれら一滴は弱く脆く、枯れやすい。みんなが一箇所に集まれば強くなれるけど、自我を失ってしまう。たんぽぽも同じでしょう?それっていいことなのかしら?

種とたんぽぽは区別できます。人間の集まり、例えば国家や社会でも個人の意思が抑圧されることはありますが、個人は自我を持った個体であることは変わりません。しかし、水の場合は話が別です。境界があいまいでしょう。

A:たとえ弱く脆くても、壁は必要
B:一つに還るのも、いいことなのかも
C:人なら一箇所に集まっても、自我を保てる

この選択肢、Aはマリアン、Bはルネ、そして、Cは文脈から外れた選択肢ですが、降臨者である旅人のことを指していると見ることもできます。

マリアンは人間にとって「自我」が大事であり、それは脆いものではないか?という提起をしています。

Q2:「生命」の本質とは?

生命の本質というとなにか大げさに聞こえてしまいますが、ようは何があれば「人間」ということができるかということです。

「マリアン」:水の形は変わり続けるものよ。生命は己が必要とする姿を選ぶことになるわ。でも、これとその本質に関係性があるかどうかについては、別の問題。昔、私もこれと同じ理屈を聞いたことがあるの。体こそが進化を邪魔する檻だってね。その人は他の人たちと同じように子供だったわ。私たち…そして、数多くの人たちが彼からたくさんの物語を聞いた。かつて、生命は水のように決まった形を持っておらず、魂も檻に閉じ込められていなかった。だから、無限であったという物語をね。数えきれないほどの人が自分の身体を捨てたわ。だって、水が血から抽出されるものなら、意志もまた身体から抽出されるものだからね。

アン:…でも、水に乾いた黒褐色の粉にかけても、再び血になることはない

ルネは「身体こそが進化を邪魔する檻」と考えていた。そして多くの人がその考え方に同意して、「意志」を抽出して身体を捨ててしまった。

※ここでいう進化とは霊性進化=魂の進化を指していると考えられます。

ここではそのようにして抽出された「意志」が生命の本質であると言えるのだろうか?ということが語られています。

運命の主人

マリアンはアンに対して以下のように言っています。4つの要素が挙げられています。

マリアン:あなたが自分の魂、記憶、人格、そして自分だけの願いを持つようになることを祈ってるわね。あなたが自分の運命を握り、本当の世界で、あらゆる美しいことを経験することを祈っているわ。分かった?

これはルネが分離した4つの架空物質及び四象限の封印(「魂」「記憶」「人格」「願い」)と対応しています。レムリアにおける精神の分類がこの4つでした。

マリアンが言うような自我をもった人間とは、自分の魂、記憶、人格、願いを持ち、自分の運命を握ることができるような人間のことを指すと考えられます。

ルネの考え

ルネの考えはかなり断片的です。

意志と肉体の区別

ルネは前文明レムリアの考え方を継承し、それを発展させました。レムリアについてはまだ不明な部分も多いですが、その基本的な考え方を表す資料の一つに「抜粋」があります。

「我らのあらゆる力は我らの意志により生じる。意志は我らと至尊の神が共に持つものであり、肉体は我らと野蛮な獣が共に持つものである」

レムリアにおいては肉体は意志の容器であって、神との合一(あるいは神のいる場所への帰還)を果たすためには肉体の束縛から脱しなければならないと考えていました。

この見方は肉体を劣位に見るものであり、獣は支配されるべき対象になります。ここに文明/野蛮の対立が生じます。レムリアがレムリア人以外のものを「昔日の人」「野蛮」などといって征服しようとした根拠もここにあると考えられます。

意志と自我の区別

前述のマリアンの話では、水仙十字結社は身体から「意志」を抽出しようとしていたこと、そして、「意志」は「自我」と分けて考えていたことが伺われます。

ここの「意志」については説明がなされていません。少なくともナルツィッセンクロイツの「意志」とは、「降臨」を目指したものであったため、「一つの世界に匹敵する意志」だと考えられます。

ルネ:すべてを見届ける者、すべてを記録する者、全てを設計する者。その地位を担えるのは、世界に等しい価値を持つ人間だけだ。

※その他の「降臨」に及ばないような意志については明言がありません。

ルネが目指したのは「解脱」?

レムリア人は文明にある周期性を認めていました。それがフォルトゥナです。ルネも文明の周期性を把握し、その輪廻を解き明かしました。今は第四周期の半分に来ているが、文明はそこで終わるというものでした。

おそらくレムリアがその周期を単純な文明の破壊と創造の連鎖と考えていたのに対し、ルネはそこに階層性(ヒュポルボレイア~クラウンアーリヤ)とより長い周期を見つけたのだと思います。

彼の行動はいかにしてこの輪廻から抜け出し生き延びることができるかということでした。輪廻から抜けることという意味で「解脱」ですね。

世界の終末が近づく中で、自我(願い、記憶など)を持っているような人間は輪廻に囚われてしまいます

そうした状態で、純水精霊の力(ないし古国の技術)を用いて無理やり自我を切り離し意志を分離する。こうしたことをすれば「人間」という種は存続することができる。

ナルツィッセンクロイツがしたことは人間を強制的に「無我」の状態にして、輪廻から解放したことであると考えられます。

ルネとマリアンの考え方の相違

二人の対立の中心はそもそも「人間」にとって重要なものは何か?という点にあります。ルネは「意志」こそが人間の本質にあり、自我は余計なものだと考えました。一方、マリアンはそうしたルネが捨て去った自我の中にこそ人間にとって大事なものがあるのではないかと考えていました。しかし、マリアンはルネほど頭がよくなかったのでうまく説明できなかった。

マリアンの「運命」に対する考え方は「運命のご主人様」になってほしいというものです。これは言い換えると運命から逃れるのではなく、たとえ結果が変わらなくても自分の選択で運命と向き合いたいということができます。

※マリアンはこう主張していますが矛盾しています。なぜなら自分は終わらない物語の中に閉じこもっているからです。マリアンの考え方が固まっていません。これについては「マリアン」はマリアンの記憶に過ぎないと自分で思い込んでいるせいであると考えられます。

「意志」とは何なのか?

「意志」の用法

普通の文脈で用いられる「意志」は、例えば「勉強しなければならないのにゲームをしてしまう。自分は意志の弱い人間だ」という文のように、本能的な欲求を抑制し、目的に向かう力のようなニュアンスを持っています。

一方、「意志」は世界の背後にある根源的な原動力(原因)という意味で用いられることもあります。これには2つの立場があります。一つは、こうした意志を消極的にとらえる立場で、人間を含むすべての存在はこの盲目的な意志によって動かされる存在に過ぎないと捉えます。もう一つの立場は、こうした意志を積極的にとらえる立場で、これは意志を個人の価値観を創造し人生に意味を与える肯定的なものと捉えます。

この消極的な立場は神を否定するものではなく、汎神論的(神=宇宙)に考えるもので、通常は神は人格を持つような存在としては描かれません(だからこそ正統派からは批判されます)。私はここでいう意志は、世界の背後にある原動力であり、そうした人格を持つ存在なのではないかと考えています。

※神に「人格」という単語を使うのは違和感があるかもしれませんが人間性をもつ神のことを人格神と呼ぶことがあります。

つまり、ここでいう「意志」は「神」の意志=「世界」の意志であり人間性を持った神です。それは「法則」に近いものであると考えられます。そしてそれは霊的な存在であるとも言えます。

霊と魂、プネウマとプシュケーの相違(私見)

マリアンとルネが挙げている4つの要素で引っかかるのが「魂」です。霊魂って一語であらわされることがありますが、それでは霊と魂は何が違うのでしょうか。

最初に思い浮かぶのはギリシア語のプシュケーです。これは元々は「息」を表す言葉で、心や魂とも訳されます。これと霊との関係についていろんな角度から考えてみます。

私は霊というとどうしても幽霊を思い出してしまうのですが、霊は広く肉体を持たない存在を指します。精霊も霊ですよね。

「霊」という字は「」で、を三つの容器で「巫」が受けている形です。一方、「魂」は云+鬼。云はで魂は雲のように考えられたからという(鬼はどこから来たんだ)。

どちらも気象が関わっているのが面白いですが、これだとプネウマとプシュケーから離れてしまっていると思います。どちらも「息」という意味があるからです。

中国語だと「灵」と「魂魄」(精神の気と肉体の気)ですね。どこから火が湧いたのが不思議ですが言われてみると確かに炎のイメージがあります。『使徒言行録』にも聖霊が「炎のような舌」1として現れたとあります。

(ちなみにシッポは「質生物界—星霊網—無形目—魂精科」だから霊でも魂でもあるという…)

ギリシア語の大辞典をあさる余力も学力もないので英語を調べます。

soul肉体(body)の対語で肉体に生命と力を付与するもの. 人間の本質的な部分で永遠不滅のもの
spirit肉体を越えた次元での活動力としての精神. また,元来肉体を備えていない存在も指す
小学館 ランダムハウス英和大辞典』より

soulには「肉体に生命と力を付与するもの」という意味があって、それは人間とは切り離せないものです(元となる人間がないようなsoulは存在しない)。一方、spiritはもっと広く人間以外の元来肉体を備えていない存在霊的な存在も含むと考えるようです。

例えばI cannot live without my soul!という文では、個人の魂の叫びを表しています。キリスト教における聖霊は「Holy spirit」でありこれは「元来肉体を備えていない存在」を指します。

この両者の関係を推測すると以下のようになるのではないでしょうか。まず具体的な「息をするもの」に対して名前が与えられ、思考が深まるにつれてより抽象的な概念へと発展した。「息をするもの」(人)と対応して「息を吹き込む原理」を神ないし聖霊と呼んだ。「息をするもの」だけが人間じゃないだろう、死後はどうなるのかという思索から「人」を拡張して「魂」が生まれた。

プシュケーは「息をするもの」→人、生命、命、心、魂。プネウマは「息をするもの」を成り立たせる原理→呼吸、生命、神、聖霊、魂など。そして意味が豊かになるにつれて重複する部分が出て来た。

私は古文に詳しいわけではないのですが、日本では「たま」(魂、霊)の中で、人間の魂も自然における霊的なものの一部のように考えていたのではないでしょうか。だから「たま」にsoulとspiritの意味が含まれている。個々人の魂が「息を吹き込む原理」だったのではないかということです。ここまで書いて気づいたのですがアニミズムですね。

魂にspiritの意味が混ざっていることが違和感の正体だと考えられます。そのため人間から魂を差し引くとそこにはなにも残っていないことになります(「息を吹き込む原理」もなくなってしまう)。

ということでここでは「魂」と「霊」を上の図のように区別して考えます。前者がsoulで後者がspirit。soulを取り除いても残るもの、それがspiritです。

グノーシス主義には人間を肉体、魂、霊の3つで分類する考え方があります。この「魂」はコスモスの存在(創造神によって創られたもの)です。ここでは、霊が本体で肉体と魂は霊を閉じ込めるためのであると考えられています。こうした魂を超えた活動原理が霊(spirit)であると考えられます。

※ここは活動原理というよりは本体と言った方が適切なような気もします。

これらをふまえると以下の文がわかると思います。

この壮大な組織の主たる目標である人間は、肉体、魂、霊から構成されている。だが究極的原理にまで換言すれば人間は二重の起源をもつ――すなわち彼は世界のものであり同時に超世界的かつ外世界的である。身体ばかりでなく「魂」もまた宇宙コスモスの諸権力の所産である。諸権力は神的な<原人>(あるいは<原型的人間>)の似像にならって人間の身体をつくり、彼ら自身の様々な心的衝動をふきこんでそれに〔疑似的〕生命を与えた。その心的衝動が自然的人間の欲望と情念であり、その各々は宇宙の天球の一つに由来しこれと対応する。そのすべてが集まって人間の惑星的魂、「プシューケー」を作りあげる。身体と魂を通じて人間は世界に所属しており、ヘイマルメネーに服従する。魂の中には霊、すなわち「プネウマ」(「閃光」とも呼ばれる)が閉じ込められている。プネウマは世界へと転落した彼方の神的実質の一部分である。アルコーンたちはまさにそれを捕らえておくという目的のために人間を創造したのである。2

マリアンのいう「魂」はテイワットで生まれた「魂」のことを指すと考えられます。ルネは「霊」が本質であるのだからそれだけでも救うべきだと。肉体だけでなく魂も檻と考えていたのではないでしょうか。

ちなみに辞書で調べるとこんな感じです。混乱するのでこれくらいにしますね。

Pneuma精神、霊、精霊
人間に生命を与える原理
Psyche霊魂、精神、心
spirit生命の原動力、精神、心、魂、霊魂、幽霊、感情、気分、活力Soul魂、霊魂、心、亡霊、感情、人、原動力
Geist精神、心、人、精気、活力
霊魂、精霊、亡霊
Seele心、霊[魂]、魂、人
訳例(『小学館 ランダムハウス英和大辞典『小学館 独和大辞典』参考)

そこで魂と霊を区別して意志=霊としました。魂に関する違和感が解消したでしょうか?

※補足ですが、仙はSeelieと訳されています。スコットランド民話の妖精でシーリーと読むようです。Seeleとは関係がありません。

「意志」の強さ

私は電波のイメージをしているのですが、距離が延びると電波の密度も下がるでしょう。そのためより大きな電力が必要になります。同じように「身体」が大きくなればそれ相応の「意志」の強さが求められるようになります。それが絶対的な意志の強さです。これがいわゆる「降臨」=一つの世界に匹敵するような強い意志だと考えられます。

もう一つ他に強い意志がないことも一つの条件だと考えられます。ナルツィッセンクロイツは旅人と出会うことによって「魔法」がとけてしまい絶対者であることが維持できなくなりました。

ここで「神」を持ち出してきたのは「神」を持ち出さないと説明できないことがあるからです。例えば「神」が時間を超越していると考えると時間の概念があいまいになります

そうすると、ここにおける「神」(に近い存在)はその時空間においては例えば過去に干渉できたり、50au(天文単位)離れたところと通信ができると考えられます(神経細胞の反応速度はとりあえず措いてください)。

神が時間を超越しているというのならば、それなら「なぜ神は過去の悪を正さないのか?」という疑問がわくと思います。これは「悪の起源」と関係する話です。ここでは過去に介入することは人間の自由意志を否定することにつながるからという一つの考え方を示しておきます。つまり、全能な神はそうすることができるが自己矛盾に陥るからしないということです。

「神」に近づくことができるならば天理の禁錮(≒法則)から脱出できる可能性があるのではないかという話になってきます。

以上が「意志」に関する私の意見です。

雷電将軍

雷電影の重要性

私は記事のなかで繰り返し雷電将軍が重要ではないかという話をしています。その根拠はまず第一に稲妻の立地。これは「闇の外海」にもっとも近いエリアであり、天空の島との距離が最も遠いため強い力が与えられていたのではないかということ(それを用いていたかは別として)。

そして二つの古代文明の存在鶴観と淵下宮です。「統一された文明」の遺跡が多いということがあります。鶴観には黄金王獣がいますよね。

また、カーンルイアと関係しているのにその記憶がないという点も挙げられます。これは世界樹における記憶の改変と同じ仕組みだと考えられます。つまり原因が消滅した場合別のものに置き換えられる(「誰かから教わったもの」→「自分で思いついたもの」への置き換え)。

カーンルイア自体の記憶は残っていることからするとこの技術を教えた誰かが世界樹から消滅してしまったのではないかと考えられます。

今回はそれに加えて雷電将軍の状態も実は重要なのではないかというものです。

雷電将軍は「意識」である

レムリアにおいては人間は「肉体」に「意志」が閉じ込められた存在で、神(至尊の神)は「意志」だけの存在であるとされていました。ここで思い出して欲しいのが肉体を捨て「意識」だけの存在となった雷電将軍です。

ただしここでいう「意識」は完全なものではありません。なぜなら「一心浄土」が濁っていたこと、そして、民の「願い」によって動かされたからです。雷電将軍が影と戦ったのは意志の揺らぎがあるかどうか確かめるためでもありました。

また、雷電将軍は元素爆発で「無我の境地へ」「ここより、寂滅の時!」といいますよね。

※「寂滅」は煩悩を離れて悟りの境地に入ることを言います

雷電将軍も肉体がない分、実は「降臨」に近い存在になっているのではないか?というのが私の推測です。双生の魔神であることといい雷電影にはまだまだ秘密がありそうです。

「人間」と世界の対応関係

テーマは「人間」

最後にまとめも兼ねて、水仙十字結社に関する世界任務は結局のところ、「人間」とは何か?が重要な問いの一つになっています。ルネは文明が滅びる中でせめて人間の意志だけでも救いたいと考えていました。

その前提となったのが人間の精神について探求したレムリア文明でした。

古代人の精神に対する研究と区別はさらに高度で、我々の手に届かないほどの高みに達している…大体は記憶、願い、魂と人格に分けられているが、精神の質については非常に複雑な区分がある…その中で、神に近いといえる、自由で完璧な状態に達したものが所謂、「真実の意志」だ
(考察記録)

レムリアが運命の審判(フォルトゥナ)から逃れることができなかった理由は明らかになっていませんが、おそらくルネと同じような役割を果たすべきだったレムス王が裏切ったためだと考えられます。そのため、レムリア人の意志の母体がなくなってしまった。

大事なのは精神の分類が「記憶」「願い」「魂」「人格」だった点にあります。少なくともこれらの4つは人間精神において重要な分類と考えられていたことになります。

「人間」と宇宙の対応

テイワットにおいては星空と人間の運命が結びついています。

「星空の輝きは人の運命です。水面に映った幻象を通せば、「真実」が現れるのです」
人々には、その原理の意味は分からないが、彼女には認めざるを得ない実力があった。

古代から人間と宇宙の関係を結び付けて考えることがありました。それがミクロコスモス(人間)とマクロコスモスです。グノーシスの文脈では宇宙(コスモス)がマクロコスモスになります。

例えばエメラルド・タブレットにも以下の記述があります。

Quod est inferius est sicut quod est superius, et quod est superius est sicut quod est in ferius, ad perpetranda miracula rei unius.(「下にあるものは上にあるもののようであり、上にあるものは下にあるもののようである。これによって一つの事物の奇跡が成就される。」)

これ自体は全く根拠のない推測ですが、人間と宇宙を似たような対応関係で考えてたら面白いなというお話です。ひょっとしたら宇宙に「神」とその意志を想定しているのかもしれませんね。

上述のようにルネは神秘主義哲学であり、こうした錬金術の流れを汲んでいるものでもありますから、テイワットの宇宙の構造をこう考えたとしても不思議ではありません。

テイワットの人間を分析すれば宇宙の構造が見えてくるのではないか?というちょっとしたネタでした。

終わりに

個人的には今まであまり気にしてなかった霊と魂に関する理解が深まったと感じているので謎の達成感があります。

ルネの考えはシンプルに言ってしまうとオカルティズムです。錬金術、グノーシス主義、仏教など様々な要素を拾って組み上げています(だから用語にもズレがあります)。

キャタピラーは水仙十字結社の教えを「神秘主義哲学」と言っていました。「神秘」はわかりにくいから神秘なのだというと怒られそうですが…。実は旅人も「神秘の象徴」と呼ばれています。

私の仏教とグノーシス主義と神学に対する理解はかなり浅いのでツッコミがあったら遠慮なくしてください。

1年後も読める記事を目指して書いています。もっと本を読まねばと感じた2023年でした。しばらくちょっと古いネタの記事を更新します。

(おわり)


  1. 「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話した」(『聖書 聖書協会共同訳』、日本聖書協会、2018年。) ↩︎
  2. ハンス・ヨナス『グノーシスの宗教 増補版: 異邦の神の福音とキリスト教の端緒』(秋山さと子 ・入江良平訳、人文書院、p68-69) ↩︎

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