今回のテーマはテイワットにおいて「信仰」はどのような意味を持つかです。神にとっての信仰の意味と民にとっての信仰の意味に分けられます。
「呪い」と「信仰」と「血筋」に関する話です。
広くver4.6までの魔神任務、伝説任務、世界任務のネタバレを含むので注意して下さい。
亡くなった神を信仰することは悪いことなのか?
私個人としては亡くなった神を信仰することは別に悪いことではないと思っています。故人を思慕するように神に対しても同じ感情を抱いたとしても別に悪いことではありません。
しかし、テイワットではなぜか「よくないこと」と考えられているように感じます。
この話が最初に出てきたのは鍾離の伝説任務です。宛煙は塩の魔神ヘウリアがモラクスによって不名誉な方法で暗殺されたと考えて、真相を追及していました。しかし、その真相はヘウリアはモラクスではなく自分たちの民によって殺されてしまったというものでした。
鍾離:ああ、遠い昔の俺にとって、ヘウリアの話は戒めでもあるんだ。亡くなった神を信仰するのは、いいことではない。…ヘウリアでも、モラクスでも、皆同じだ。
この話より後にも亡くなった神とその信仰に関する話は出てきます。
⑴ 魔神オロバシ
稲妻の内戦の直接の原因は目狩令ですが、対立の芽は400年以上前からありました。晶化骨髄は魔神オロバシの一部で、幕府はその御神体を粗末に扱っていました。
現在の海祇人の多くは、先祖を生きる道へと導いた大御神が蘇る可能性など信じていない。しかし、海祇人としての高い誇りと、かつて崇められていた神の体が宗主によって鉱物として扱われる苦痛、そして海祇大御神を失った深い悲しみ…これらは親から子へと受け継がれ、強い感情となった。そして、それらは文字には残らない歴史となり、海祇人の信仰を築き上げ、そこに忍耐や闘争、犠牲の脚注を付け加えた。(珊瑚宮民間信仰に関する初調査)
このきっかけを作ったのが御影炉心でした。これはフォンテーヌの機械職人エッシャー(「博士」)がまいた種ということもできる思います(魔神任務3章間章参照)。
なぜファデュイがここまで稲妻に固執したのかは謎ですが、一つには本物の雷電将軍が一心浄土にいて表に出て来なかったことがあると思います。あるいは邪眼の材料である魔神の残滓が豊富にあるからという資源目的かもしれません。
稲妻の内戦の原因の一つとして信仰上の対立がありました。
⑵ マハールッカデヴァータ
マハールッカデヴァータの話。賢者たちはクラクサナリデビの知能がそこらの子供と変わらないことを知って彼女をないがしろにしました。クラクサナリデビを幽閉し、民衆にとってもクラクサナリデビは遠い神となってしまいました。
⑶ キングデシェレト
キングデシェレトの話。これも魔神任務の話ですが、キングデシェレトの信者の一部が、神の復活を目指して神の缶詰知識を集めていました。
これはマハールッカデヴァータが草神でキングデシェレトが亡くなったという結果から、魔神戦争でマハールッカデヴァータがキングデシェレトに対して卑怯な手を使ったのではないかという思い込みから生じたものだと考えられます(ヘウリアの信者の思い込みと同じ)。
司祭カサーレが恨みのことに言及していたように昔からすでに対立は始まっていたようです。
⑷ エゲリア
純水精霊の話。彼女らは前神エゲリアを慕い、フォンテーヌを後にしました。彼女らは甘露花海のエゲリアへの巡礼の旅を終えた後、各地へ散り散りになりました。
純水精霊たちは自分たちの故郷に予言の危機が迫っていたにも関わらず、魔神フォカロルスを助けることがありませんでした。テイワットの水系を維持するという責務からすればフォンテーヌの洪水は無視できたとは考えらづらいです。
このように考えると確かに亡くなった神を信仰すると今が見えなくなるというデメリットがあるように思います。また、信仰が分散してしまうのも神にとって信仰が持つ意味を考えると重要だと思います。
この話の中で出て来ないのがモンドです。モンドにはかつて風神と共に「時の神」が祀られていましたがその信仰は次第に失われていきました。
神にとって信仰が持つ意味
「信仰」の対象
ナヒーダは「神は民の信仰から力を得る」という話をしています。
ナヒーダ:あなたたちも聞いたことあるかもしれないけど、神は民の信仰から力を得る。でも私は、マハールッカデヴァータのように人々に慕われているわけじゃない。
これは信仰の対象となる神が二柱いると信仰が分散してしまうことを意味していると考えられます。だから、「亡くなった神を信仰することはいいことではない」と考えられます。
小説ですが岩神も民の信仰心から力を得るということが書かれています。
それでも、岩神の法律で公平な取引ができて、安全に生活ができる人々は彼を尊敬し、信じた。岩神も同じくその信仰心から己の力を強化してきた。(「帝君遊塵記・二 」)※小説
ウェンティは神の責務を果たしていないことから大きな力がないとしていました。しかし、大きな神像があり、教会組織もしっかりしていることを考えるとちょっと不自然です。ウェンティが力を隠しているか、スメールと同じように信仰の対象にズレが生じてしまっていることが原因だと考えられます。
仮にウェンティに信仰による力がないのだとすればそれは長く人々の前に姿を見せていないからだと考えられます。
※フォンテーヌでは神と「正義」に対する信仰が神と神座を破壊するエネルギーとなっていました。魔神フォカロルスの正体をフォンテーヌ人は知らなかったので、神そのものに対する信仰はその程度で大丈夫だと考えられます。「正義」に対する信仰でよいのならばナヒーダも「知恵」に対する信仰でよくなってしまうからです。
このように俗世の七執政は「信仰」から力を得ています。神との関係においては神そのものに対する信仰が重要であると考えられます。
神の責務とその理念
仮にナヒーダの「神は民の信仰から力を得る」という発言が正しいものだとすると、神そのものに対する信仰も重要になってくると考えられます。
一方で、神そのものではなく「理念」が大事という考えも成り立ちます。
テイワットの神は無限の命を持つものではなく「摩耗」というある種の寿命を持った生き物です。ということは自然と終わりがあります。新たに魔神が誕生するか、魔神でない神を許容しない限り俗世の七執政はいずれ終わります。天理はこうしたことを織り込み済みだと考えられます。
例えば岩王帝君が逝去しても「契約」を守ることに関する岩王帝君の教えは璃月に残っています。これが「人類を導くこと」という俗世の七執政の責務であり、神はその役割を終えたということもできると思います。
※「そして私も、神が亡くなる最後の一秒にも信仰を失いませんでしたから、呪いにかかることはないでしょう。」(『ペリンヘリ』)。すなわち、信仰は神の命が尽きるまでと捉えることもできる。
神の教えについては神が亡くなっても受け継がれていくものです。「契約」には必ず相手がいるもので璃月人が公正な取引を行い続ける限り、契約に関する岩神の教えは受け継がれていくことになります。
「黄金の眠り」に出てきたボニファズのようにモンド人は「自由」の教えを忘れていません。貴族政治から抜け出して自由を獲得した歴史も「自由」の大切さを人々に刻んでいます。稲妻は…外敵を排し「永遠」を求めています(これはさすがにちょっと無理がありますが)。
スメールはマハールッカデヴァータによって「知恵」を求める教礼院の仕組みが作り上げられました。これには六罪とマハマトラというストッパーがあります。フォンテーヌは裁判によって「正義」が保障されています。
このようにそれぞれの神の理念は制度化されたり、歴史の一部になったりして受け継がれていると考えられます。神がいなくてもその理念は人々の中に残っていくものと考えられます。「人間を導く」という役目には終わりがあります。
氷の女皇が「愛」だとすると炎神の「戦争」はやや異質に感じます。「強さ」と言い換えればそこまで違和感がありませんが、もしかしたら反転して「平和」や「協調」に関する教えになるのかもしれません。
神にとって信仰は力を得るために必要です。一方、神の責務との関係では、神にも終わりが来るのだから、時間と共に神そのものに対する信仰はそこまで重要ではなくなってきます。
以下では「信仰」が民にとってどういう意味を持つかを考えていきます。
「神」のいない国カーンルイア
カーンルイアは神がいない国で「信仰」を持たない国です。純粋な血筋を持ったカーンルイア人は国を神々によって滅ぼされ、「呪い」をかけられたので、なおさら神を信仰することはありません。
ダインスレイヴはこの「不死の呪い」について「世界の因果に匹敵する烙印。そして、神々の呪いは人間そのものよりも格が高い」ということを言っています。
この呪いについて掘り下げたのが、魔神任務3章6幕「カリベルト」です。
エデ:…、神から不死の呪いを受けたのは、「罪深い者」とされた血筋のもっとも純粋なカーンルイア人の実天。そして、他の魔神の血筋を持った国民たちは、逃亡をする最中で荒野の呪いにより魔物となったんだ。
カリベルトの最大の謎の一つになぜエデの不死の呪いが解けたのかというものがあります。
エデは故郷カーンルイアを滅ぼされ、カリベルトをヒルチャールに変えられたことで神々を憎んでいました。彼はカリベルトのために、自分の信念をまげて、七天神像に頭を下げて禁薬を作ります。しかし、この薬はカリベルトには効きませんでした。
カリベルトを探すために、層岩巨淵の近くでとある遺跡を見つけます。そこにいたのが「罪人」でした。ヒルチャールはここに集まり、遺跡そのものと「罪人」に対して跪拝していました。そして、エデもこの「罪人」に対して跪拝しました。
奇跡を目の当たりすることによって回心するということはよくあります(例えば「目からウロコ」のパウロの回心などがそうです)。エデは「罪人」に出会った後に、息子を治療する禁薬の効果が出るという奇跡を目撃しました。彼は願解きをしようとまで言っています。
「罪人」は確かに信仰の対象となっていますが、「運命」そのものではないと思います(どちらかというと旅の終点で運命を見届ける者という感じだと思います)。ポジション的には使徒の一つ上、俗世の七執政のような信仰の対象の一つだと思います。
エデが呪いから逃れる前提には「罪人」が起こした奇跡がありました。そこで、呪いが解除された原因として、未信者が初めて信仰心を持ったことが考えられます。
逆に考えると「呪い」は信仰を持たせるためにかけられたのではないでしょうか。「信仰」を持つことそれ自体に何か意味がある。つまり、呪いはある種かけられた人間を救済する意図があったということです。
「裏切り」の代償
これが「荒野の呪い」です。
カリベルトは純血のカーンルイア人の父コロタールとモンド人の母の私生児です。彼は純血のカーンルイア人出なかったため「荒野の呪い」によってヒルチャールとなりました。
遺跡巨像にはヒルチャール化と思われる文章が残されています。これは実装された当初は魔鱗病と関係があるのではと考えられたのですが「毛髪の増殖」などの症状を見るにヒルチャール化に関する文章で間違いないと思います。
カリベルトも夢の中で小さな部屋にこもっていたということを言っていました。これは血筋によって区別されたものであると考えられます。
裏切りの代償については『ペリンヘリ』にも書いてあります。『ペリンヘリ』は「物語自体は虚実入り混じるものだったが、重要な細部においては抜けも誤りもなかった。」と道化が言っているように虚偽が含まれていると考えられます。
怪しい部分が以下の箇所です。
容赦ない追跡の末、三人はついに国境を離れた。そして――その瞬間、レオブラントは己の顔を覆った。話す言葉も次第に変わり果てて行き、ついには獣の咆哮にしか聞こえなくなった。
魔女――アンジェリカはこう説いた。「レオブラントは己の神を見捨てて王国に来た一族の末裔です。そしてこれこそが、王国に純血主義を主張する貴族が絶えない理由。これが…神様を裏切った代償です。」
「しかしペリンヘリ…あなたは外から漂流してきた人。ですから、このような呪いなど持ってはいないはずです。一つの世界に匹敵する崇高さとは言えずとも、あなたは自分なりの運命を持っています。」
「そして私も、神が亡くなる最後の一秒にも信仰を失いませんでしたから、呪いにかかることはないでしょう。さて、私の正体が分かりましたか?」
この本は「カーンルイア考古学」に基づいて書かれたとあります。そのため、カーンルイアの歴史を反映している部分があります。例えば王国が純血主義をとるという部分であったり、カーンルイアの災厄後に起こった現象を含んでいるように思います。
この話を七国の話として読むならば神を裏切った者(信仰を捨てた者)は罰を受けるというように思えます。
※アンジェリカは貴金の神(モラクス?)を神とは認めなかったが、神が亡くなる最期の一秒にも信仰を失わなかったとあります。これは俗世の七執政が決まる前の話ですが、「信仰」それ自体に何か意味があると考えられます。
信仰と見返り
以上のように信仰を捨てると罰を受けるということは、信仰によって隠された真実があると考えられます。テイワットの謎の核心そのもので神の目の代償と同じくらい深いものです。
ここでは、信仰によって何が見えなくなっているか、代わりに何を得ているのかを少し考えたいと思います(根拠は全くないので妄想強めな点に注意)。
ダインスレイヴは「信仰」に人々がエネルギーを費やしていることについてこう言っています。
パイモン:「信仰」は見返りを求めないものだろ?
ダインスレイヴ:ふん、神がそれでいいと思っているのなら、何も言うまい。
ダインは自らを「信仰を拒む者」といっています。そして、神を一度も信仰したことがないし、これからも信仰することはないという話をしました。
⑴ 何が見えなくなっているのか?
今考えているのは次のようなものです。
信仰の代償に人々は物事を正しく見る目を失った。具体的には元素を見る目です。「神の目」を持つ者、つまり「第三の眼」を持つ者は元素を見ることができます。
アルベドは旅人が神の目を用いずに元素を使える理由を調査していましたが、その中に「誰もが元素力を使える世界」というものを仮定していました。旅人は誰でも元素力の使える世界の住人だから神の目がないのに元素力を使えるという仮説です。
結局、旅人は身体的にはテイワット人とほとんど変わらないというものでした。
これと同じようにテイワットでも誰もが元素を操れる状況があったのではないか。
言ってみれば許可と特許の違いのようなものです。許可はもともと自由に行うことができるものを一律に禁止し、個別に禁止を解除することを言います。例えば運転免許などがそうです。
テイワットでは元々誰でも元素を自由に使うことができたが(元素生物のように)、秩序を与えるにあたってそれが厳格に管理されるようになり、部分的に解除されるようになった。それが神の目ではないかということです。
神の目を持つ者と持たない者が見ている世界はどう異なっているのだろうか?
⑵ 見返りとは何か?
「庇護」とは何か。今考えてるのは「夢」を見る能力というものです。
例えばマハールッカデヴァータはこう言っています。「かつて私はこの世で唯一夢を見られる個体だった。私の夢では人々はみな夜になると夢の世界に入れた。」とあります。草神はその権能として夢や幻覚を見せる能力があると考えられます。
そして「ベッドタイムストーリー」。夢に関係する話題です。
召使は夢の中で赤い月を見ます(「私がよく夢で見る赤い月と私が持っている力は一体何だ?」)。カーンルイア人の血を引く者はテイワットの人とは別に夢を見るシステムがあるのかもしれません。
上で書いたようにカリベルトも、遺跡巨像に乗っていたカーンルイア人も夢を見ていました。
夢は現実と対になることがあります。現実の厳しさを覆い隠してくれるものでもあります。
「信仰」と「血筋」と「呪い」
血筋の問題は重要でカーンルイア人の起源に関わってきます。『ペリンヘリ』の話をふまえるとテイワットには一定数の漂流者(星間難民?)が流れついていたことがわかります。そうした人々が築いた神のない国がカーンルイアだったのかもしれません。
色々な問題はありますが、原則として信仰は自分で選べますが、血筋というのは自分で選べないという違いがあります。
カリベルトを例にとるとコロタールは信仰を持たない者、モンド人の母は風神の信仰を持つ者で、カリベルトはその間の子です。神を裏切ったのはモンド人の母だと考えられます。
余談ですがカリベルトの母は骨がそのまま残っており、ヒルチャール化する前にエデによって、あるいは自ら命を絶ったと考えられます。
カリベルトはもしかしたらモンドで生まれて洗礼を受けた可能性もあるので、『ペリンヘリ』のレオブラントの方が適切かもしれません。
レオブラントは「己の神を見捨てて王国に来た一族の末裔」とありますから、彼自身が信仰を裏切った可能性はとても低い。彼は信仰を捨てたという理由ではなく、信仰を捨てた者の血筋という一点のみで罰を与えられたと考えられます。
信仰を捨てた者が呪われて、その呪いが血を通じて継承されていると考えられます。そしてテイワットに戻ろうとすることがその呪いのトリガーになっていると考えられます。
災厄の時にはディフ(黒い獣)がカーンルイアに出現し、カーンルイア人たちは地上に避難せざるを得なくなった。そのため、呪いが発動してしまったと考えられます。
※これは逆に考えることもできます。テイワットの人間は元々呪われた人間で、信仰がそれに蓋をしていたというものです。「法則」の中に戻ろうとすると異物を排除するシステムに引っかかってしまうというものです。たた、漂流者や降臨者は排除されないの?という疑問はあります。
おわりに
俗世の七執政であるフォカロルスが「人間」フリーナにかけた呪いのように、呪いは他方から見れば別の意味を持つことがあります。今回は、コロタールの「呪い」が解けた理由に「信仰」というのをを考えてみました。
色々と問題はあります。例えばテイワットのすべての人が神を信仰しているわけではないでしょう。そういった人たちが例えば、テイワットの庇護から抜け出してしまう、元素の循環から外れてしまうと考えてしまうといかにも不自然です。
たとえばキリスト教の洗礼のようにテイワットでは生まれた後に何らかの儀式があってそれ以降、テイワットの庇護を受けるのかもしれません。
なぜ信仰を捨てた者は「法則」からはじかれてしまうのか、信仰を捨てた人はなぜ信仰を持たなかった人より重く処罰されてしまうのだろうか。そもそも、「信仰」はあまり重要ではないのだろうか…。
現実でもそうですが、未信者は背教者よりは優しくされるので言いたいことはなんとなくわかります。
結局のところ、「信仰」が何を隠しているかが分からないとこの問題には十分な答えが出ないと思います。
まとめると、コロタール・アルベリヒの呪いが解けたのは別の神(=「罪人」)を信仰し、その庇護を受けたからではないか?ということです。あるいはその後に逆さ神像をつくり、カリベルトを神として奉ったことによって呪いから逃れることができたのかもしれません。
カーンルイアに関する記事をもう1つ書いているのですが更新後になりそうです。
(おわり)
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